なんか長くて足が生えてるやつ

とっ散らかった文章の場。夢 感想 メモ 脳内 日常

リセットの仕方とそれからつれづれ

なんか昔っからなーんかまいってる時に
Web上の性格診断をやる癖がある

自分が憂鬱な時は
まあ大体自己否定モードにはいるから
自分という人格の再認識・再定義が
行いたくなるようなんだよな

だからと言って
診断結果を何かの指針にしたいとか
そういう意図は全くないんだけど

そんで結果を流し見して

人がそんな簡単に分類されるか
いやされるだろうとか
いいやされない
されるかもしれない
そもそも分類することになんの意味があるのか

とかどうでもいい思考に入っていって
何かどうでもよくなる

そんでなんか気分がリセットされる
されない時もあるけどさ

まあ何事に対しても思ってるんだけど
考えすぎても何にもならないなという
ことですね

馬鹿の考え休むに似たりというか

考えるの無駄だろうとは言わないが
ネガティヴなことで煮詰まった時とか
自分自身とお話ししてても
思考が下の方へ下の方へと行ってしまいがちなので

自分を客観視出来る冷静さのないときは
なんか違うことやったほうがいいよと思うね

まあそれが出来ないから
落ちていくのだけども

でもまあ思うに
大体のことってどうでもよくて

いやどうでもいいっていうか
何がどういう結果になっても
まあその時はその時なりの道が
あるよねって思っていて

結局自分がどう思おうが
何しようがどっちかには進む

なんでなんかあっても
ある程度ほっておく

ある程度ほっておいても
譲れないときは足掻く

なんで最善手探して
脳内で堂々巡りするよか
ちょっと脇に置いて
リセットしてリスタートしてさ
なんとなくハッピーな感じに生きてたいんよ

夜 愚考

自分の好きなものについて、
好きであるが故によく知っているし、また知ろうとする。
また好きであるが故に盲目になるし、盲信する。

それは嫌いなものに対してもそれは同様であるように思われる。

元よりたいした差なんてないのだ。
好きか、嫌いかなんて。

好きでも嫌いでもない、つまり興味のないものに対する感情よりも、
それは大きな熱量であることは同じで、ただ振れた方向が違う。
それだけのことのように思われる。

好きなものを嫌いになることの容易さは、
多くの人の知るところであると思うが、
その反対も同様ではないか。

以前よりそんなことを考えていたので、
今まで嫌いであると思っていた「人」を
好きであると考えてみようとしたことがある。

今まで見ようとしなかったそのものの良さを認めて、
嫌であったことを気にしないようにした。

2-3ヶ月をかけて、それは叶った。

全てのことに適応しうるかどうかは、
まあ正直なところ好きか嫌いかという点ではなく、
損得や倫理観などの要因が障害となりうるので色々と難しいが、
やろうとすれば可能ではあるだろうと思う。

大概のことは自分の考え様次第だ。

そんな不安定なものを拠り所にしても、
仕方ないのではないだろうかなんて思ったりもする。

しかしまあそういう不安定な足場で遊ぶのが、
人生を楽しく生きるためには必要なのだろう。

なんて愚にもつかぬことをつらつらと思う今日この頃。

日常

今日、普段よりも早く
といってもほかの人が普通に来るくらいの時間にラボに行った。
デスクでコーヒー飲みつつ作業していたら、ボスがやってきた。

ボス「なにかあったの?なんでこんな時間にいるの」
自分「何もないですよ」
ボス「え、噓でしょ」
自分「マジで何もないですよ」
ボス「あ、ここに泊まってたの?」
自分「そんなことないですよ。学内の寮に住んでるから、もう普段はラボには泊まらない」
ボス「昨日も夜遅くまでいたのに何で?」
自分「なんとなくですよ」
ボス「んー(不満気)」

うちのラボはコアタイムとかは特にないので、
実験器具があいているほかの人が作業していない時間に
ちょっとずらしてこれまでは来ていたけど、
これから朝は書類作業とかにもっと当てようかなと思って、
ちょっと早く来ただけで何かあるかと疑われる自分の信用のなさに笑う

ラボまで徒歩二分の所に住んでるから泊まらないよ!

机 椅子

机の高さ・いすの高さというものは存外重要であると思う。
こういったものがぴったりとこないと、なんだかやる気が起きない。

特に自分は今や身体測定ではかられなくなったらしい座高が、
人より割合高いので、机が低いと
身体を相当丸めないと作業しにくくていかん。

机が高いとつられて椅子も高くなって
足がちょっと落ち着かない。

軽く背中を丸めて、
投げ出した足が地につくぐらいがちょうどいい。

そして欲を言うならば、
いすは肘掛があって、クッション材はちょっと固めで、
下にローラーとかがついていて機動性がよく、
それでもあんまりぐらぐら動かないのがいい。

机は0.7尋位の幅で、ラップトップと書類を積むスペースがあって、
奥行きはたっぷり半尋あると、ひじを机の端に乗せて作業するのにちょうどいい。
それと高さは座った時の太ももから15㎝位のところに天板が来るといい。

そうそう自分で選べる環境にはおらねど、
長く時間を過ごす場であるからこそ、
こういうもののこだわりは本来的には重要であると思う。

なんか急に思ったので

葬式とか墓とかいらん、
死んだあとのことなんてどうでもいいとかいう意見を今日見たんだけどさ、

気持ちはわかるけど区切りがないと結構つらい

亡くなった人のためというか
生きている人のためにあってもいいんじゃないかなって思う

数年前に先輩的な人がまあ急死されたんですけど
あまりにも急だったし若い人だったので
ご家族の判断でお葬式もなくお墓の場所も明かさずっていう感じで
ご家族の気持ちはわかるんだ

だけど

なんかふと思い出してなんかやっぱり
その人がもしかしたらなくなってないんじゃないかなんて
思ってしまう自分がいる

そんなことはないんだけど、悲しいけど

分かってるはずなのに
Aさんが好きな○○が出てる!教えてあげよ!とか思っている自分がいて、
そうだ、もういないんだなあってなる

いや、この気持ちが葬式とかがあれば思わなくなるかと言えば違うけど
なんかこういうことを考えた時に最後のお別れができていないことを思い出す

なんかそれが結構痛い

わかんないけど

そんなの故人のためとかじゃなくて自己満足だと思うだけど

区切れていない
割り切れていない

思い出さないことがいいとかじゃなくてさ
なんかそういうことじゃないんだけどさ

さよならできずにお別れって結構悲しい

陸の孤島はその人と結構来る機会のあった場所で
一人でいるとふとした時にその人のことを思い出す

その人のだったものとかが置いてあったりしてなんか
今ものすごく寂しいんだよな

だからなんとなくこんなことかんがえていた