なんか長くて足が生えてるやつ

とっ散らかった文章の場。夢 感想 メモ 脳内 日常

作品と作者

作品は作品として、その作った人とは分けて考える。

 

例えば幸せな風景を描いた物語が、作者がとても幸せとは言い難い時代を過ごした最中に作成していたとして、「これは作者の願望を描いたもので、それゆえにこれは悲しい物語なのだ」という読み方はしたくない。

 

例えばとんでもなく非道な行いをした人が、とても美しい詩を歌ったとして「この人物は最低なのだから、この詩も最低である」とは言いたくない。

 

例えばある映画に監督がこの作品に平和への祈りを込めたと語っていたとして、「監督がそう語っていたのだから、そう読み取れないのはおかしい」とは思わない。

 

もちろん作品に作者の思想、バックグラウンド、その時代、環境などが影響を与える/与えてしまうことは理解している。

 

作者に価値がないと言いたいわけではない。

 

作品をどう受け止めるかは読んだ、聞いた、見た、感受した側に依存する。つまり感受する側と作者が同一ではない以上、どのような人物がどのような世界を生きてどのような思いでその作品を作り出したのかということは知りようもなく、全て受け取り手の想像に過ぎない。

 

清廉潔白に思われる人が、その内で何を思い過ごしているかは分からない。またその人の一面だけを知ったような気になってそのほか全てを断ずることは出来ない。面白くと思わずとも、悲しく感じていたとしても、怒りに満ちていても、美しい言葉で話して顔では笑うことも出来るのに他者が真に考えていることなんて分からない。

 

結局のところ、他者は他者であり、自分は自分である。

 

自分の感受したものを、作者ないし他者の感性に影響を受けて解釈、評価することを好まない。同時に自分の感性という枠組みで他者を定義することも高慢であると感じてしまう。

 

時には作者はこの作品を作る時にこんなことを思っていたのではないかと空想することはある。作者の思いに寄り添っていると夢想する。ただ、思う。それだけだ。

 

自分はこう感じたのだ。こう考えるのだ。それだけは正しく、否定されようもない。言い換えるなら、自分が感じた全て、考えた全て、それ以外はなにも分からない。

 

作者に対し、最大限の敬意を払い、作者と作品を切り分ける。

 

そうして、自分はいる/いきたいと考えている。